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☆◇★◇☆ ~ 月刊・歴史チップス ~ 第68号-1
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★◇☆ [2007年6月号 籠城味] (SINCE 2001)
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☆ 難攻不落!金城鉄壁!家康タヌキの本領発揮!!
~ 戦国最終日本史上最大の籠城戦・大坂冬の陣!!
(1)
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■今月の味付け■ 当巻は序文と本文1
序 文.愛知長久手立てこもり事件
本文1.狡猾!徳川家康!!
本文2.失望!片桐且元!!
本文3.結集!負け組共!!
本文4.頑強!真田幸村!!
本文5.錯乱!お茶々様!!
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最近、立てこもり事件が頻発している。
頼んでもいないのに、日米立てこもりの競演も行われた。
なかでも平成十九年(2007)五月十七~十八日に起こった愛知
長久手立てこもり事件では、二人の警官を含む四人の死傷者を
出してしまった。
「立てこもり」は「籠城(ろうじょう)」ともいうが、この事件
の犯人・大林久人(おおばやしひさと)はブラインダー越しに銃
を発砲しており、狭間(はざま)から矢や鉄砲を射た戦国時代の
籠城戦さながらであった。
「近づくことができない~」
当然であろう。昔も今も籠城戦を強行突破(正攻法)で陥落さ
せることは容易ではない。今回の事件も結局は神経戦で解決し
たのである。
「いつまで倒れている同士を放っておくんですか!早く助けに
行きましょう!」
正義感というものは、殺気立っている犯人には通用しない。
感情が高ぶっているときこそ、より慎重な冷静さが必要だった
のではあるまいか?
今回の人質は「殺されるはずのない人質」である。
しかも「同士」が撃たれてから、すでに五時間も経過してい
たのである。そこまで放っておいたのであれば、最後まで神経
戦で攻め続ければよかったのではあるまいか?
結果論といってしまえばそれまでかもしれない。
一番後悔しているのは、林一歩(はやしかずほ)巡査部長(殉
職後警部特進)であろう。彼は防弾チョッキの弱点というもの
も、当然のことながら教えられていたはずである。
「チッ、しくじったか……」
いずれにせよ、彼の無念さはこの上なかったはずである。
ということで今回は戦国時代の籠城戦の総決算「大坂冬の
陣」をお届けしたい。
徳川家康(とくがわいえやす)のこの攻め方というものは、今
後の籠城戦の参考にはならないであろうか?
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1.狡猾(こうかつ)!徳川家康!!
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慶長十九年(1614)四月、前天下人の継嗣・豊臣秀頼(とよと
みひでより)は方広寺(ほうこうじ。京都市東山区)を再建した。
すべては豊臣家滅亡を目指す現天下人たる大御所(おおごし
ょ)・徳川家康のたくらみであった。
「方広寺を再建してあげなさい。大仏も造ってはどうですかな
?亡き尊父(秀吉)も喜ばれましょう」
方広寺は天正十四年(1586)に豊臣秀吉が大老・小早川隆景
(こばやかわたかかげ)に命じて造らせた大寺である。
伽藍は豪華で高さ六丈(約十八メートル)の大仏も鎮座してい
たが、慶長元年(1596)の大地震で全壊していた。
秀頼は素直であった。
「そうですね。再建すれば亡き父も喜ぶでしょうね」
いや。本当に喜ぶのは、ほかならぬ家康であった。
家康はここぞとばかりに勧めた。
「長い戦乱で全国各地の有名な社寺が荒廃しました。もはや天
下は平和になりました。もともと貴殿の尊父は無一文から全国
を平定し、天下一の大富豪にまで昇り詰めました。このことは
ひとえに全国の神々仏々の御加護があってのものと思われま
す。ここらへんでこれらに御礼をしてあげてはどうでしょう
か? いや、しないと罰が当たりますよ~」
「うん、そりゃそうだ」
秀頼は勧められるがまま、全国の有名社寺を再建しまくっ
た。
法隆寺(ほうりゅうじ。奈良県斑鳩町)・薬師寺(やくしじ。
奈良県奈良市)・法華寺(ほっけじ。奈良市)・出雲大社(いずも
たいしゃ。島根県出雲市)・延暦寺(えんりゃくじ。滋賀県大津
市)・醍醐寺・四天王寺(してんのうじ。大阪市天王寺区)・石
清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう。京都府八幡市)・南禅寺
(なんぜんじ。京都市左京区)・北野天満宮(きたのてんまんぐ
う。京都市上京区)・等持院(とうじいん。京都市北区)・随心
院(ずいしんいん。京都市山科区)・熱田神宮(あつたじんぐう。
名古屋市熱田区)・大鳥大社(おおとりたいしゃ。大阪府堺市)
・枚岡神社(ひらおかじんじゃ。大阪府東大阪市)・金峰山(き
んぷせん。奈良県吉野町)・吉野水分神社(よしのみくまりじん
じゃ。吉野町)・石鎚山(いしづちやま。愛媛県)・叡福寺(大阪
府太子町)・都久夫須麻神社(つくぶすまじんじゃ。滋賀県長浜
市)・葛井寺(ふじいでら。大阪府藤井寺市)・勝尾寺(かつお
じ。大阪府箕面市)・本山寺(大阪府高槻市)・松尾寺(大阪府和
泉市)などなど、彼が再建・造営・増改築に携わった寺社は枚
挙にいとまない。
(しめしめ)
家康はほくそ笑んだ。
(そうじゃそうじゃ。もっともっとカネを使え!そして、ド貧
乏になるんじゃー!)
そうである。家康は豊臣家の財力をそぐために寺社造営を勧
めたのであった。
「秀頼はバカですな」
徳川官界のボス・本多正信(ほんだまさのぶ)は笑った。
その子・正純(まさずみ)とともに策士として知られるあの男
である(「2004年4月号 裏金味」参照)。
家康はつめをかみかみ苦い顔をした。
「それがそんなにバカではないから困っておるんじゃよ。どち
らかと言えば、うちの秀忠(ひでただ)のほうがバカじゃ」
「プッ!」
思わず吹き出した正純を、家康がにらみつけた。
自分で息子を悪く思うのは構わないが、人に思われるのは気
に食わない。
「だからこそ、わしの目の黒いうちに豊臣家をつぶしておかね
ばならんのじゃ」
慶長五年(1600)の関ヶ原の戦以降、家康は豊臣家に対して数
々のイジワルをしてきた。
西軍の主将・石田三成(いしだみつなり)とは無関係といって
おきながら豊臣家を大幅な減封したこと――。
さも当たり前のように征夷大将軍に就任したこと――。
当然の成り行きのように秀忠へ将軍を委譲したこと――。
二条城へ秀頼を無理やり呼びつけて会見したこと――。
などなどである。
「今度は怒るぞ。今度は兵を挙げるぞっ」
家康は仕掛けるたびに期待したが、そのたびに豊臣家は耐え
忍んできた。
「おのれタヌキ親父!」
何かにつけて暴走しがちな淀殿(よどどの。淀君。茶々。秀
頼生母)を、
「どうか、御辛抱のほどを!豊臣家をつぶしては、亡き太閤殿
下(秀吉)に面目が立ちませぬ!」
加藤清正(かとうきよまさ)、浅野幸長(あさのよしなが)、片
桐且元(かたぎりかつもと)といった秀吉子飼いの武将たちが制
止してきたからである。
が、すでに清正も幸長もこの世の人ではなくなっていた。
清正は慶長十六年(1611)に五十歳で、幸長はその二年後に三
十八歳で没していたのである。
「今度こそ、豊臣家を怒らせるのじゃ」
家康は取り巻き達を見回した。
「もはやわしも長くはない。すでに三浦安針(みうらあんじん。
按針。アダムス)に鉛(なまり。鉄砲玉の材料)を買い付けさせ
た。ここらでそろそろ決着をつけねばならぬ。者ども、何か妙
案はないか?」
家康の策士は正信・正純父子だけではなかった。
仏教界の長老・天海(てんかい)、黒衣の宰相・以心崇伝(いし
んすうでん。金地院崇伝)、朱子学林家の祖・林羅山(はやしら
ざん)などなど、一癖(ひとくせ)も二癖もある連中ばかりであっ
た。
天海が切り出した。
「豊臣家は方広寺の大仏開眼供養にわしを招いてきた。席順は
真言宗よりも天台宗を左(上位)にしなければ、わしは出席せぬ
と答えておいた」
一同、ふっと笑い合った。
これは難題である。
天海は叡山(えいざん)最高職探題、つまり天台宗のボスであ
るが、対する真言宗のボスは秀頼お気に入りの醍醐寺(だいご
じ。京都市伏見区)座主・義演(ぎえん)であった(「2002年3月
号 花見味」参照)。しかも真言宗にはもともと醍醐派・東寺
(とうじ。教王護国寺。京都市南区)派・高野山(こうやさん。
金剛峰寺。和歌山県高野町)派との三つ巴(どもえ)の序列争い
が存在するのである。
つまり、淀殿や秀頼が困惑することは目に見えていた。
正純も言った。
「中井(なかい)の件でも、豊臣家は困るでしょうね」
中井とは大工頭・中井正清(まさきよ。藤右衛門)――。
この度の方広寺の造営工事ほか、江戸城(えどじょう。東京都
千代田区)・伏見城(ふしみじょう。京都市伏見区)・二条城(に
じょうじょう。京都市中京区)・仙洞御所(せんとうごしょ。京
都市上京区)・駿府城(すんぷじょう。静岡県静岡市)・名古屋城
(なごやじょう。名古屋市中区)・法隆寺・久能山東照宮(くのう
ざんとうしようぐう。静岡市)・日光東照宮(にっこうとうしょ
うぐう。栃木県日光市)などなど、桃山~江戸時代初期の重大建
設工事を一手に取り仕切る大ゼネコンの棟梁(とうりょう)であ
った。
その中井が大仏殿の棟札(むねふだ)に異議を唱えたのであ
る。
「どうして施工した私の名前が書かれてないのですか?これで
は棟札ではなく、無名札ではありませんか」
棟札を書いたのは、三井寺(みいでら。園城寺。滋賀県大津
市)長吏・興意法親王(こういほっしんのう。後陽成天皇の弟)。
「何を言う。古来、日本でも唐(中国)でも、大伽藍の棟札には
大工の名前を入れないのが慣例ではないか」
「いいえ。違います。これは興福寺(こうふくじ。奈良県奈良
市)南大門の棟札の写しですが、この通りちゃんと大工の名前
が書いてありますよ。まだまだほかにもこんなにたくさんの
例があります。ほらっ、ほらっ」
多くの証拠まで持参してきた中井に、家康は笑ってしまっ
た。
「お前もイジワルよのう」
「いえ、大御所様ほどでも~」
さらに中井は八月一日に決まった棟上式について、
「一日は建物にとって縁起が悪い日なんですよ~」
と、ケチまで付けている。
崇伝が言った。
「しかし、これだけではまだ豊臣家を怒らせるには不十分でし
ょう。豊臣家を確実に怒らせるには、先に大御所様がお怒りに
なることです」
「ほう。まだ策があると?」
「はい。これを御覧ください」
崇伝は巻物を広げて見せた。
「なんじゃ、これは?」
「京都所司代・板倉勝重(いたくらかつしげ)殿より取り寄せた
方広寺の鐘銘の写しです」
方広寺の鐘は、総奉行・片桐且元、監検・板倉勝重のもとで
鋳造された、高さ一丈八尺・口径九尺一分五寸もある巨鐘であ
った。これに元東福寺僧・文英清韓(ぶんえいせいかん。清韓
文英)の銘文が刻印されたのである。
「ふむ。この銘文が何か?」
「こことここの部分を御覧ください」
家康は崇伝が示した漢文を読んでみた。
「国家安康(こっかあんこう)――。君臣豊楽(くんしんほうら
く)――」
そして、みるみるニヤけてきた。
「なるほど、こういうのを墓穴というのじゃな。豊臣家、滅び
たり! ヒッヒッヒ!」
(つづく)
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※ 文中の敬称・愛称は省略しました。
※ 本文は資史料等に基づいて編集者が作成しましたが、再現
・推測ドラマが混在しています。
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として)。
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と明記。
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